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自分用歴史メモ。

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越後史集 天より


・安田上総介順易は、謙信以来数十度の手柄、軍功の侍大将、人数を廻し、度々の誉あり。されども毎度手疵を負ひ候。鐵上野介も、度々の武あれども、武勇にかさなく、将師の量なし。杉原常陸介親憲・本庄越前守繁長は、武勇の大がさありて、将師の器量、世に類多からざる程の大将なり。何れも謙信代より、先手を致したる者なり。直江山城守兼続は、文者にて、詩聯句の達者、連歌・歌道勝れ、口上弁舌能く、大音にて、公儀・座配無雙なり。大男にて勿體よく、天下の御家老にしても、然るべき見事なる侍なりべしものにて、諸大臣と交り、石田三成・浅野弾正などと、牛角の座配。当家にて、卅二萬石なり。大膽者にて、いひたき事をいひたる由、千坂對馬守も、弁舌明に才智ありて、男振人に勝れ、何方へ使者に遣しても、あつぱれなる武士なり。岩井備中守は、元来信州飯山城主にて、謙信小姓立、見事なる男にて、十八度の武辺、才智弁舌ありて名高く。其上千利休に茶道を学び、数寄上手なり。安田上総介は小男にて、手疵故少し足を踸く。眼振光ありて、面にも手足にも、鎗・太刀・鉄砲の痕多し。何者が見ても、大剛の侍大将なりと、いはぬ人はなし。中々すすどく、気高き侍にて候ひつるなり。直江山城守、連歌の発句に、紹巴の褒美あまたあり。

・景勝は小男なれども、何様にも貌魂、何百人の中にても、無類の大将なり。一代詞寡く、笑ひたる事なし。弾正定勝は、慈悲なる人にて、士卒を憐む故、家中上下思付く事浅からず。謙信・景勝両代に、家を立除き、又は死失せ、追放に遭うたる譜代の侍共の子孫を、大方呼返す故、諸人悦ぶなり。

・景勝は、素性(うまれつき)詞寡く、一代笑顔を見たる者なし。常に刀・脇差に手を懸けて居らる。或時に、常々手馴れて飼ひ給ひける猿、景勝の脱ぎて措き給ひける頭巾を取り、樹の上へ昇り坐して、彼頭巾を蒙り、手を扠へて、座席の景勝へ向ひて點頭きたるを見て、莞爾(にっこ)と咲(わら)ひ給ひたるを、近習の者共、初めて見たるとなり。
城下八幡小路を、轎(のりもの)にて通り給ひけるに、陪臣の歩若黨、だて染の帷子にて参り懸り、畏り居たるを、景勝見給ひ、好き若者なり、立つて歩むべし。男の振を見んと宣ひければ、彼者立上り、二反歩みて、又畏りたるに、景勝、俄に気色替り、大に怒りたる形勢(ありさま)にて、あの奴牽いて参れとて、歩侍に両手を牽張(ひきは)らせ、前へ引寄せ、己め、景勝を嘲哢せん事奇怪なり。屋形腹筋、いやいやといふ大紋を附けたりとて、抜打に誅し給ひける。帷衣の肩に、一手鏑矢を付け、腹に大筋を付け、裾に射捨てたる矢を紋に附けたりしを、見咎め給ひけるとなり。

・永禄七年七月五日に、宇佐美駿河守定満と、長尾越前守政景と、信州野尻城下の池にて生害の後、時々光物出で来、其上に、魚なくなりたり。慥なる事なれば、書き記すものなり。
政景は、龍嚴寺に葬る。憲徳院匠山道宗と號す。定満は雲洞院に葬る。芳名は養勇庵良勝儁公と號す。雲洞院は、代々宇佐美菩提所なり。駿河守一代、人数扱ひ、下知に持ちたる軍配団扇、幷に宇佐美の系図を、雲洞院什物に納むる。


・(中略)畠山入庵内室は、謙信姪なり。十一二歳の頃、殊の外愛せられ、関東陣の時は、兒の出立にして、小具足の上に、長絹の直垂を着、太刀・刀ささせ、馬に乗りて、老女三人介錯に付きて、輝虎共に連れられたる由。此姪は、即ち畠山下総守義貞の御母儀なり。父は長尾政景、母は謙信妹。後には仙桃院と號す。
永禄七年の秋、信州にて、政景を、宇佐美駿河守定行が殺したる時も、大方謙信の内意とある事、粗ぼ知れたる故、仙桃院は、謙信に向ひて、越前守果てられ候は、偏に戦場にて御用に立ち候同意に候間、義景・景勝は申すに及ばず、娘二人も御見捨あるまじと、申されたる由。斯様の事にて、宇佐美駿河守遺跡は、強く頽して、子の民部をも、深く二代まで勘当さられたるなり。今に至るまで、宇佐美駿河守事は、当家にては忌んで沙汰せず。先祖の讐たる故なり。


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・重家の乱で、重家は妹婿である長実さんを味方にいれようとしたけどいい返事がもらえず、しかも先手で攻めてきたので、重家は遺恨を持って最期の時には色部の陣中に突っ込んで討死した。
長実さんは重家の首を取って景勝様へ進上した。

・宇佐美定行(定満)の子、勝行が父が生害したため本領を没収され、小千谷五泉辺りで浪人していたとき、本領を返してもらうと、新発田の乱の際に新発田方の屈強な敵を二人倒して首を取った。そして平林内蔵助に頼み込み、景勝様に謁見させてもらえることになった。しかし、宇佐美から事情を聴いた景勝はみるみる怒りの表情に変わり、眼の光は光炬の如く平林を睨み付け、宇佐美を追い返した。
平林も頭を垂れるしかなく、宇佐美は二つの首を捨て置いて泣く泣く立ち去った。景勝は「実父を殺した仇である宇佐美駿河の子をどうして許せるか」といったという。
この話は平林が上杉綱勝の傅役についたときに語ったものである。

・上杉が米沢移封になったとき、慶次にいろんなところからスカウトが来た。どれも上杉での知行よりは高かったが慶次は「自分の主人は景勝以外いない」と言って断った。一生妻子を持たず、寺住居のようなところに住み、在郷へ引き込んで、定勝の時代に病気をした。


・兼続と政宗との扇子の上でお金をポンポン回す話

・閻魔大王の逸話

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●天文七年為景君仙壇野にて御切腹に候后天文十一年三月十三日胎田父子三人企謀反

為景さんは切腹してないはず

●三月十八日諸将鮫尾を攻む此日前管領公並道満丸四谷ニ而桐澤但馬か為に弑され玉ふ

桐澤さん…だと…?

1579 7/18 大宝寺義氏、信長に馬と鷹を送る(信長公記)

3/5 山辺宛七守雅楽助氏信書状写(義氏の家臣)
 大宝寺が鮭延の田之沢を落城させ、地下の者の籠る近辺の楯4,5箇所を押し払い、新城・古口に陣を手配した
 →山辺が大宝寺に味方していた?

? 乙坂左近宛義氏書状写
「まむろ前にてひるいなきはたらき・・・詳しくは前森蔵人申上げ候」

「板垣河内覚書」
天正9(1581) 7/21
「まむろの地に籠り、新城前にて天正九年七月二十一日の合戦に首壱つ取り申し候、但し新城譜代の者に候」
天正10(1582)
「 鮭延田ノ沢にて天正十年の合戦に首壱つ。ただし最上譜代の者に候」

7/12 金沢殿宛義氏書状写(横手市史119)
鮭延中の備えの事も涯分下知に及ぶべく候、少しも心もとなくあるまじく候
(鮭延はおおむね支配し、少しも心配していない)




7/24 大高筑前守宛杖林斎禅棟書状(荘内史料集1 247)
鮭延口の儀、山形より一和の取りなしにおよばれ候間、無事に属せし候間、御心安かるべく候



4/8 下国愛李の家臣大高筑前守宛杖林斎禅棟書状
「(由利へ)内々に今度鉄炮の者共三十人差し下すべきの由申しつくるの処、去る三日清水へ調議を致し、不慮に相当り則ち彼の物主義氏を抱え取り候。然る条彼の親類二三十ヶ処在城を構えられ候衆、悉く此方へ罷り出でられ候、家風に候長沢と号(よ)ぶ仁罷り出でざる故、一二ヶ所いまだ罷り出でず候。これにより庄中の諸士払いて相立ち、手透なきの条、鉄砲十四五丁差し下し候。爰元の儀、当月中に悉く本意に属すべきの条」

訳:三日に清水を攻撃し、城主の義氏を捕らえた。そのためその親類2、30ヶ所の城衆が従うようになった。しかし長沢氏が出ないために1、2か所がまだ従わないので余裕がなくなり、由利への鉄砲は14,15丁だけ送るようにした。清水は当月中に思い通りになるだろう。




菊月17日 「狩川駅宛土宮内少輔氏慶書状写」(庄内史料集1 241)
「今度鮭延への人数相立つべきため、藤島の地へ罷り越し候。其許よりも御太儀ながら相立てられ候由、杖林兼々申し越ささるの由に候。左様に候わば、明朝早々相立てられもっともに候」
鮭延攻めの出陣人数を決める為?、狩川駅に出陣を要求する。



閏5/7 山吉孫次郎・直江大和守・柿崎和泉守宛杖林斎禅棟書状(庄内史料集1 234)
 「仰せの如く今度本庄にむけて、御屋形御自身御馬を進められ候条、内々急度御加勢におよぶべく候処、清水・鮭延数ヶ所に番手指し置き、手透なきにより、少々御助勢に及び候」
大宝寺、清水・鮭延に番手を置いて支配する(南陽市山吉文書)
(繁長の乱時の事だから永禄12?(1569)繁長降参は永禄12の2~3月)


8/18 雨順斎御宿所宛義氏書状(庄内史料集2 179)
横山城(三川町)や高坂楯(鶴岡市)が戦場となり、小国氏が加担していたので30人ほど成敗を加えた。

8/27 本庄殿宛義氏書状
今回竹井成敗のこと、土佐林家風の者どもは降参したので助けたが、櫻井をはじめ一両人は谷地館に籠り、清水に内通したためただちに陣中を破り、こちらも火の手を上げ、昨日26日に押し寄せて落城させた。籠城していた桜井を始め100人ほどを一人も残さず殺した

(この二つは雨順斎時代だから1570~?)



2/4 天童殿宛楯岡満茂書状写(横手市史 史料編中世補遺一)
鮭延滅亡のおり、延沢氏と仲が良かったため助勢出陣したが、鳥越は落城し、新城も中楯まで破られ放火された。さらに猿羽根は降参し、残るは清水城など二城のみとなった。


8/7 大崎殿宛義光書状(古川市史第七巻資料2 or 横手市史史料編)
鮭延が日増しに逼迫していくので嘆かわしい、捨て置くこともできないので自分一騎でも出陣したいと思っているが、伊達の中山要害に備えるので余裕がなく、手が空いてるなら是非助勢を願いたいが、その際には庭月氏を遣う
→最上と大崎の間で庭月氏についての婚約があり、庭月が最上配下になっていたのでは?
庭月氏は天正六年以前から最上家臣に?
大崎と最上が手を組んだ(婚約した?)ことで、大崎に庭月の支配を一任した?


天正元年(1573) 8/16 「羽州庄内村山郡山形城主源五郎義光家臣 鮭延越前守家次(花押)」書状
(平田町 平松氏所蔵、山形県史 古代中世史料2 386)



天正5 閏7 大崎義隆、庭月式部少輔に川口名跡を宛行う(楓軒文書纂所収文書) ※文書要出典(保角氏の本より抜粋) (楓軒文書纂:文化・文政年間(1804‐30)に編集した模写古文書集)
大崎が庭月に安堵できる状態だった、「仍執達如件」と奉書形式を使用。つまり「上意を受けて」安堵した。


天正六年極月十五日「木次孫四郎充義氏書状写」
逆心した木次氏に対して知行を宛がう。


5/2 「庭月殿宛義光書状」(横手市史 史料編 古代・中世)
鮭延が我侭を致すので氏家尾張守を遣わして成敗することにした。其方はしばらく音沙汰がなかったので鮭延へ同心していると思っていたが、此の度奉公に出てきてくれてとても嬉しい。
私が着ていた着物を寄越すので、それを着て尾張に会ってくれると嬉しい。


梅月(5月)19日 「西野修理亮殿宛義光書状」
 「真室の儀我儘致すにより、此度氏家尾張守代官として申しつけ候て、余儀なく取り鎮めさせ候」(横手市史 112)


梅月(5月)27日 「」(片倉文書)(山形県史?)
「鮭延の儀、祖父代より根絶致したく存じられ候。其憤の末をもって、今般輙ち(すなわち)対峙せしめ候」

6/14 「三坂越前守殿宛義光書状」(庄内史料集1 309)
「我々家中、清水と呼ぶ地へ、大宝寺より慮外致すに依り、清水の者共、其報戦に及び候間、少々加勢、彼庄過半手に属(つ)き候」
義光が鮭延掌握もめどがたった状態だったことを示す。



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年不肖2月5日 鮭延入道舜与書状(落合文書)
※落合氏―大宝寺義氏や土佐林禅棟らが小野寺家臣に宛てたものや小野寺→落合への書状など、庄内・大宝寺と関わり合いが深い。この書状は永禄年中推定(1558~1570)
稲庭殿への書状。
舜与の元に長々と御越してくれた例と、雪解け後は直接挨拶に行きたいという旨を書いた手紙。
使者は関口民部少輔と添えている。




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天正16(1588) (鮭延寺開基之縁起)
小野寺氏と六郷氏の合戦のさいに秀綱は山田に入り和議を取り結ぼうとしたところ、不慮の儀によって合戦が起き、この対陣中に上杉の庄内侵攻があって義光から帰陣するよう命令を受けて戻った

※ちなみに十五里ヶ原が1588年8月なので年代的には一致。

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天正十二年(1584)?2/21 関口能登守宛義光黒印状
 しばらく関口からの音信がなく心変わりしたのか不安だったが、音信を貰って安心した。凄く嬉しい
また、蔵増安房守(村上郡小国城主))が能登と義光をとりもっていたこともこの書状からわかる。



6/17 小野寺義道→次男の保道への書状(秋田藩家蔵文書)
「我々母方名字佐々木而候、鮭延越前にて候へ共、子共も無之相果候、関口能登筋も今ハ無之候間、左様候ヘハ絶候間、母方之名字ヲつかせて、以来ハ佐々木新右衛門と名乗候へと申遣候、其心得尤候」
小野寺義道が子の保道にあてた書状にて「われわれの母方の名字は佐々木。鮭延越前がそうであるが、子供もなく絶えようとしている。関口能登の筋も今はなく、このままでは佐々木の名跡が絶えてしまうから、母方の名字を継いで佐々木新右衛門と名乗るよう申し遣わした」
佐々木新右衛門は義道の子の宮内である。
「稲庭城主小野寺家系」では、義道の母を大宝寺義氏の娘とするが、この書状だと佐々木氏。(横手市史)

関口能登…平鹿小野寺氏の臣に名前あり。仙北。系図によれば関口氏は藤原姓で、佐々木氏とするなら源氏のはず。

「岩井家家譜」(東源寺五百年誌)
・尾崎重能:嘉吉3年(1443)誕生、後、岩井七郎・新五郎備中守と称す。
 文明8年(1476)兄:政重より高井郡之内岩井邑(むら)田神邑を分与される。故に岩井の姓を称し、甥の信濃守重元に属す。永正12年(1515)9月20日死去。73歳。法名:康往院殿釈沢匍下退位。永正16年岩井邑に社殿を建立し和光明神を勧請し和光山第七之別社として岩井霊祠とする」

高井郡之内岩井邑(中野市大字岩井)
岩井城(朝日山城):(同地)

甥の信濃守重元→泉氏。岩井の本家は泉氏。

岩井直信(元能)(重能の息子)の時代に岩井村から水内郡山口村(飯山市大字旭)に移住。山口城を築城。
(泉家の記録では山口の地は泉氏が岩井氏に分与したものとある)

直信の息子が三人。満高・成能・満長(信能父)。
また、高梨系図に「高梨摂津守政頼の室岩井入道女」とあり、岩井家の分家と思われる。

武田の高梨氏攻略の折り、その支配化にあった岩井城も落城したと思われる。
高梨政頼は飯山城に逃れる。飯山城には泉一族の上倉下総守、奈良沢民部が守備。
その際岩井一族も武田派と上杉派で分裂。

山口城には岩井三兄弟がおり、長男に子がなかったため満長が養子となり跡を継ぐ。
満長は政頼に接近し上杉と誼を通じる。

永禄3年正月21日、景虎に太刀一腰送る。
永禄4年、政頼と共に春日山に移動?
永禄4年の川中島合戦に出ていたとされる信能だが、この頃3歳ぐらいなので父の事か?
「上杉家御年譜1」に御手廻の中に岩井民部少輔が
永禄5年、安田景元と共に飯山城を奪還。(上杉家文書)
永禄6年8月3日、大和守満高、所領下条宮内少輔跡地・念仏寺領を宛がわれ、越後に移る。
(柏崎市に下条という地名。柏崎市山澗(だに)に念仏寺があるのでそこ?)
「上杉家御年譜1」「岩井大和守 越府ニ居住スヘキ由言上ニ依テ 管領モ渠(かれ)カ
 志ヲ感シ 下条宮内分ニ念仏寺領ヲ合テ是ヲ賜リ 湯沐(もくとう)ノ地トス 大和守ハ備中守カ兄ナリ」

「上杉御家家中諸士略系譜」岩井満高の項
「永禄6年8月父子弟三人して越後に参り、謙信公に来りて属す」

永禄7年8月、川中島合戦で、武田と対峙した後謙信は飯山城に退去。
永禄7年6月頃、飯山城を大々的に修築した。9月完成、10月、川中島より帰陣した謙信は飯山城に立ち寄り完成を視察している。

<本庄氏記録>
千代猪丸十三歳ナレハ 長資ヲ討戮スヘキ時節至リ 家中ノ志士 古主ノ仇ヲ報ス然而 小川カ長臣等
荒山ノ館ニ籠リタルヲ 押寄誅之 翌日ヨリ鮎川清長カ居館ヘ押寄セ攻之 是又天文八年父ノ讎(あだ)ニ仍テ也



<反町文書>
天文20年10月×日
勝長→岳椿斎・繁長

証文案。小河が切腹したことで本庄と鮎川に隔たりが出来た。その事で色部がとりなして和解させるというもの。
大川、大宝寺のつくろいをもって、両者から退散した者の仲裁をした。


天文20年10月
繁長(?)→勝長×日

度々従鮎川鉾楯無極候儀、雖無念候、…

鮎川の矛盾ぶりには腹が立つけど貴方の意見での和睦なら仕方ない、的な?
他の起請文にも似たような鮎川批判っぽいのがある。

<飯沼文書>
天文15年千代猪丸宛行書状
3/24 返々、先年於下渡ヶ島少地任申付候、相違之間、只今此分相渡候、…

この前下渡島の土地を宛がったけど行き違いとかがあったので、下渡島の代わりにこちらの土地を宛がいます、という内容?

<本庄氏記録>

文禄3年10月28日、景勝公の聚楽第へ秀吉公入御 仍 上杉家司11人 秀吉公に拝謁
本庄越前守繁長 同出羽守充長 其列たり 此外九人は直江山城守、千坂対馬守、大石播磨守、
安田上総介、栗田永寿、島津左京亮、須田右衛門大夫、藤田能登守、大国但馬守 なり

御太刀1腰 御小袖5 銀子50枚 本庄越前守進上
御太刀1腰 御小袖3 馬1匹   本庄出羽守進上
秀吉公へ拝謁する 右御成之節 秀吉公へ景勝公より進らる馬の先綱は大石播磨守綱元
後綱は越前守繁長 牽之 此式委細 別に1冊の留書有り

<耕雲寺文書>

右衛門次郎房長□五代目本庄大和守房長儀ハ 天文八年十一月廿八日頓死 法名綱山統公庵主と申候ヘハ 私先祖之分ハ 其頃公ノ字を法名之内へ相用候歟(読み方:ヨ か や)ニ相見ヘ申候


<新潟県史 色部文書>

享禄4(1531)8月20日 清長→憲長へ起請文 房長・憲長・長基・清長の間で隠し事はしない。

同じく享禄4年1月、例の壁書

天文10年 鮎川氏家中起請文案 (本当に鮎川氏のものか断定は不可能) 
矢羽幾の「公的に嫌な対応」のせいで数年間隔たりがあり、3年間争ってきましたが、色部殿の取り計らいで和睦することにしました。
でも下渡島は鮎川の本領なので返して下さい。
清長に対し子息市黒丸についての記載も??どうやら市黒丸から孫次郎に改名します、という内容っぽい。
8/6の起請文案とほぼ同じ内容。

天文10年 同じく色部が小河に対し起請文。本庄・鮎川・貴所・某とある。

天文10年7月 鮎川から色部へ起請文。

天文10年?7/27 清長・鮎川家中から勝長・色部家中へ起請文。(それぞれ) 下渡島について。

天文10年(1541年)7月26日 清長→勝長への書状
下渡島に出奔した清長の家臣を本庄側で切腹させてもらってまずは満足。家中の糾明を急ぐ、という手紙。

天文10年8月6日 起請文案、おそらく鮎川→孫五郎へ
2月の起請文案とほぼ同じ。



天文20年11月 改名した清長(?)(入道後)、岳椿斎 元張 での署名で勝長へ書状。小河の切腹について。


(越佐史料3)
<黒川文書>
天文9年12月7日 晴景から揚北諸将へ

実元の入越について。歓迎しているように見えるが…?

宛名は
色部 竹俣 荒川 黒川
加地 安田 中条 鮎川

<本文>
定実、実元を迎養せんとして、其資を諸将に課すること、七年十月二十四日の條に、植宗未だ之を決定せざること今年十一月二十八日の條に見ゆ

二十八日、定実、伊達実元を迎養せんとするや、本庄房長等之を懌(よろこ)ばず、仍りて中条藤資、伊達氏の援を得て房長を越後本庄城に攻め、房長羽前大宝寺に遁(のが)る、房長の弟小河長資、其虚に乗じて本庄城を襲取す、房長乃ち国に帰らんとして、是日、途に没す。

<色部文書>
中条弾正忠、伊達之儀馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷伊達之人数、本庄・鮎川要害□之條、彼面々大宝寺へ退去、己他之国に罷成儀歎ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之儀、巣城計に城置付落居之砌(みぎり)、従伊達晴宗無事爲取扱及使者、…






関係ないけどちょっと退避
<中条町史>
永正9年(1512)年為景→築地への書状。鮎川要害に対して陣を張っている様子がうかがえる。(562ページ)

・謙信死去後、三郎に変心ありとする。
 5月1日の夜に二の丸を捨て御館に立てこもる。
 三郎を氏康の三男とする。武田四郎勝頼は姉聟。
 越国の諸氏は三郎に通じる者多し。
 栃尾城主:本庄清七郎綱秀、鮫ヶ尾城主:堀江駿河守宗親、飯山城主:桃井伊豆守義孝、
 厩橋城主・河田伯耆守重親、北条安芸守輔広、北条丹後守景広、米山寺城主:篠宮某、
 三条の町奉行;東條佐渡守、猿毛地には柿崎一族、琵琶嶋弥七郎、 本多石見守

 直峯、坂輪、旗持ち、越中の不動山、根知の将士及び郷民まで志を通ずる者多し。


・一方、上田城には御兄右京亮義景を始め 究竟(くっきょう)の勇士相集まる 所々の塁にも兵士を置き厳しく要害を設け守らしむ

・5月10日、本庄清七郎与板に出張。


・5月15日、三条町奉行、東條佐渡守が春日山の町屋を放火し御館に入る。

・5月17日、景虎側の桃井が春日山に攻めるも討ち死に。


・5月22日、大石兵部丞へ景勝から感状。(複数の人間に出している)

・天正6年12月、甲府より御婚礼相調って、秋山伊賀守定綱を使いとして勝頼へ御祝儀を使わす、勝頼も喜んで返書を送る。(勝頼の宛名は「上杉殿」)

永禄7年2/13、謙信小田氏治を攻める。
喜平次、御留守に御座し、寺院に仰せて陣中の御祈祷を使介を以て巻数等を遣わさる。
御陣労を候問に給う。
謙信より喜平次へ御書

天正4年、喜平次22才、謙信より姓名を改め、上杉弾正少弼景勝と名乗る。(書状あり)

天正6年3/9、謙信、卒中風を患う。祈療するも効果なし。
3/13、午刻49歳で死去。近臣ら葬式をして遺骸を不識庵に移す。景勝、三郎が棺の左右に列侍した。春日山の北丸大乗寺長海導師たり不識院殿真光謙信法印大阿闍梨と号をいただく。
家督は景勝に継ぐと、病中に言った。
天正4年の名前の譲与もこの時決定した。
近臣らは評議し、景勝は本城に、三郎は二の丸に移した。このとき、それぞれにつく将が出始める。

3/24に芦名の旧臣の石黒蔵人から謙信逝去の挨拶の書状と、景勝に取り入るために太刀一腰を送る。

4/3、芦名修理より景勝へ入魂の挨拶の書状が届く

4/20、繁長が、謙信の遺言により本城に移住する。吉江喜四郎まで一翰を呈す。
詳細は桐沢左馬亮に聞くよう書いている。
(訳間違ってるかも…)

・政景の次男
・人皇百六代後奈良院弘治元年乙卯十一月二十七日辰刻上田城に於いて誕生。乳名は卯松。
・永禄2年 5歳で上田より三条へ御引取り。謙信公の御側に近侍し給う。
・同年 卯松元服。喜平次顕景と名乗る。
・永禄4年 政景、舟遊び中に溺死。諸氏は救援に向かったがその甲斐なし。
 遺骸は上田の禅宗楞厳寺(りょうごんじ)に送葬す。当寺三代長可和尚御導師たり、宗得院殿匠山道宗大居士と号す。
 子供は2男2女。長男は右京亮義景、次男は喜平次、一女は上条弥五郎義春に嫁す、二女は北条景虎三郎に嫁す。
 政景の溺死を聞いた謙信は大層驚き、宮嶋三河守を召して喜平次を保護する。
 上田衆は沼田、飯山、市川の砦を分けて守った。残る諸士は、上田に差し置かれ、義景に従属し軍事を勤務した。


あれ、義景が生きてる…?

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