永禄7年2/13、謙信小田氏治を攻める。
喜平次、御留守に御座し、寺院に仰せて陣中の御祈祷を使介を以て巻数等を遣わさる。
御陣労を候問に給う。
謙信より喜平次へ御書
天正4年、喜平次22才、謙信より姓名を改め、上杉弾正少弼景勝と名乗る。(書状あり)
天正6年3/9、謙信、卒中風を患う。祈療するも効果なし。
3/13、午刻49歳で死去。近臣ら葬式をして遺骸を不識庵に移す。景勝、三郎が棺の左右に列侍した。春日山の北丸大乗寺長海導師たり不識院殿真光謙信法印大阿闍梨と号をいただく。
家督は景勝に継ぐと、病中に言った。
天正4年の名前の譲与もこの時決定した。
近臣らは評議し、景勝は本城に、三郎は二の丸に移した。このとき、それぞれにつく将が出始める。
3/24に芦名の旧臣の石黒蔵人から謙信逝去の挨拶の書状と、景勝に取り入るために太刀一腰を送る。
4/3、芦名修理より景勝へ入魂の挨拶の書状が届く
4/20、繁長が、謙信の遺言により本城に移住する。吉江喜四郎まで一翰を呈す。
詳細は桐沢左馬亮に聞くよう書いている。
(訳間違ってるかも…)
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