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自分用歴史メモ。

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米府鹿子より一部抜粋、順不同
※「広報よねざわ」では米府鹿子の成立年は宝暦年中(1751~1763)

源氏 武田 本国甲州五百石武田町 ●寺 林泉寺
源氏 畠山 本国越後弐百五十石 同寺
藤原 山本寺 本国越後二百五十石水主町 同寺

平氏 長尾 上州白井千石 水主町 林泉寺
平氏 中條 本国越後九百石 水豆(豆?)町 極楽寺
平氏 本庄 本国越後千六百六十六石六斗六升六合 屋代町 福島 長楽寺
平氏 色部 本国信州千六百六十六石六斗六升六合 越後●●(書道?)町 窪田村 千眼寺
平氏 安田 本国越後四百十六石六斗七升弐合 主水町 常安寺
平氏 黒川 本国越後五百石 八代町 高岩寺
平  鮎川 本国信州二百五十石 日朝寺
平  鉄  本国信州五百石 ●●町 林泉寺
平  吉江 本国越後二百石 林泉寺
平  國分 本国越後弐百石 八代町 関興庵
源  栗林 本国越後二百石 同寺


藤原 千坂 本国越後千五百六十五石 日朝寺
藤原 柿崎 本国越後二百五十石 主水町 西蓮(?)寺
藤原 清野 本国信州千四百十六石六斗六升六合 同丁 禅透院
藤原 芋川 本国信州九百八十五石 主水町 廣泰寺
藤原 平林 本国信州八百五十石 小細工(?)町 東源寺
藤原 杉原 本国越後二百石 同丁 禅透院
藤原 大石 本国関東二百石 主水町 高岩寺
藤原 本庄 本国越後二百石 表町 海應院(五七の桐)
藤原 本庄 本国越後二百石 主水町 常安寺(本という漢字の家紋)
藤原 樋口 本国越後二百五十石 表町 関興庵
藤原 深沢 本国越後三百五十石 関興庵
藤原 狩野 本国越後二百石 日朝寺

源  高梨 本国信州二百五十石 主水町●寺 照陽寺
源  須田 本国信濃戦国 主水町 興国寺
源  新津 本国信州五百八石七斗六斗●合 主水丁 禅透院
源  岩井 本国信州五百八十五石 東源寺
源  大国 本国信州二百五十石 表町 関興庵
源  島津 本国信州五百石 同丁 法泉寺
源  甘粕 本国越後二百五十石 主水町 栄松寺
源氏 竹俣 本国越後千石 主水町 常東院(蛇の目の方)
源氏 竹俣 本国越後六百石 主水町 常東院 是追●●(四ツ目結の方)
源氏 下條 本国越後二百五十石 土手ノ内 真福寺

大江 毛利 本国越後二千百六十六石六斗六升四合 大手●● 慶福寺

滋賀(賀?) 香坂 本国信州三百五十石 栄昌寺
滋賀 春日 本国信州五百九石八斗●升 ●岩寺
滋賀 清野 本国信州二百石 普門院

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○は解読不明


会津若松御主城之○○○家臣城代

羽州 米沢松ヶ崎 直江山城守兼続 後重光 従五位下
同州 石那田 泉澤河内守久秀 領○勢会津○○ 禄三万石(?)
同州 金山 色部長門守光長 禄二万石
同州 鮎貝 中條與次三盛 禄一万石
同州 高畑 春日右衛門元忠 禄五千石
同州 小国 松本伊賀守高久 3200石
同州 庄内酒田 志駄修理義秀 5100石
同州 藤島 木戸元斎範秀 5000石
奥州 福島 本庄越前守繁長 三万石 従五位下
同州 南山 大国但馬守実頼 従五位下 21000石
同州 梁川 須田大炊助長義 2万石
同州 浅香 安田上総介能元 11000石? ○○会津○○
同州 宮代 岩井備中守信能 6000石
同州 保原 大石播磨守綱元 5500石?
同州 白石 甘粕備後守景継 二万石
同州 津川 藤田能登守信吉 ?
同州 伊南 清野介次郎長範 一万石?
同州 白河 芋川越前守正親 六千石
同所 二ノ郭 平林蔵人佐正恒 三千石?
同州 長沼 島津○○○忠直 七千石?
同州 二本松本城 下條駿河守忠親 4500石?
同州 西城 秋山伊賀守定綱 2000石?
同州 ○○本城 山浦源右 景国 6○00石
同州 ○西城 市川本○尉 房綱 6700石
同州 ○○ 栗田刑部少輔国時 8500石
同州 猪苗代 水原常陸介親憲 5500石
同州 ○山 竹俣左京亮利綱 2100石
伏見御留守将 千坂対馬守景親 従五位下 5500石?

○は解読不明


慶長三年春、越後より御移國○福島城水原親憲被差置、同五年春親憲は猪苗代城へ移、本庄繁長森山城より福島城へ移、須田長義は信州貝津城より慶長三年二月中旬森山城へ移夫妻又同年四月中梁川城へ移差○
福島梁川は伊達政宗を押○樞要乃地たる○依而本庄須田両豪家具撰に當るものなし

福島は本庄家代々城代令之出羽政長幼年之節、叔父鮎川伸重を以後見に被定旦米澤奉行衆連名し奉書を以家督共に一同被命

福島御城代
 平七郎満家男実大関阿波守盛憲男始大関弥七ト云 天正十四年春蒲原郡水原城満家一族相続
             水原常陸介親憲
慶長三年会津御移国○○福島御城代命之、与力同心御付 禄五千五百石
同五年春今井源右衛門国廣代会津猪苗代御城代命之

越後村上城主大和守房長男○村上城主 天正・慶長十九年家督を動乱蟄居和州西京
文禄二年御赦免○○○○○村上城主慶長三年会津御国替○○奥州仙道○山城禄一万石余○○三千石(?)同心給分
従五位下 ○ 源次郎、雲林斎、雨順斎
            本庄越前守繁長


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      播磨守綱元男○百石
       大石右馬兼棟(棟?)
○月不詳慶長六年家督、禄不詳○○○切腹(?)苗字断絶


      備中守信能男 禄不詳 岩井源蔵元能
○月不詳慶長十九年○月大坂御陣供奉 ○有紋御動乱

本藩新史1

本藩新史2
 本庄繁長・顕長・久長
 長尾権四郎景廣
本藩新史3
 竹俣慶綱、秀利、親常
本藩新史4
 千坂景親
 高梨政頼
 色部勝長
本藩新史5
 安田景元
 安田長秀
 黒川清実
本藩新史6
 清野長範、良範
本藩新史7
 ?
本藩新史8
 甘糟景継
本藩新史9
 須田満親、満胤、満盛
本藩新史10
 侍組 斎藤・鐡・志駄
本藩新史11
 侍組 香坂・岩井・沢根・平田・本間

佐渡攻めあたり。めんどくさいので途中まで。



(誰が出たのかはわからないけど(史料持ってない))天文16年5/6、出雲崎より出発し、南佐渡を左に当って東方へ押し回し、北佐渡の内、片山の港へ着いた。

藤田・安田・須田の三将、合わせて六千騎は、翌七日に出雲崎を出発し南佐渡を右に当り西方へ押し回し、澤根湊へ着いた。
ここは北佐渡自然詐偽にて、大石・長尾等へ一戦を仕掛る事があれば、手脆く負けることはないだろうといえども、なお用心のために、三将を遣わしたら、
佐渡の者共は思い寄らず、西方より大勢で押上り切懸ったら、全く勝利を得るべしとのことなので、このようであった。

とりわけ藤田能登守の相備は、垣崎(柿崎のこと?)弥次郎・新津丹波・斎藤三郎右衛門・松本左馬助・色部修理・黒川左馬助・甘糟備後、
検使には村松應閑齋を差し添えて、先手を仕り、万事の指引は能登守次第と仰せつけられていた。


(中略)

6/6、能登守は備大将といえども、一番合戦、二、三は安田・須田三備と備定める。
もっともそのうち、手分・手組・手配は、時によって地によって、様子は変わっているけれど作法に違いはない。
陣城の留守は、新津丹波に人数を差し添えて残し、吉井の敵城へ取り寄せる。
須田備は、その辺の植田を混散らし、畑の物を薙いで放火すること、これまた一の武術である。
藤田備は、大手門に向かい、安田備は搦手門へ向かった。
長尾加賀守は、大石播磨守を残して、片上より出向かい、口に備を置く。

そうしていると、敵は搦手門より打って出て、安田衆に襲い掛かる。安田はこれを喜んで取り掛かった。


(中略)


・その後色々あって、戦後、何故か能元が藤田組に来て、藤田組の夏目舎人・斎藤源太左衛門に感状を出した。これは景勝公が言上仕り、
そのうちの験であったので、このようであった。

ツイッターの知り合いに宛てたもの。
天正10年ごろの大見安田の当主は誰なのかということについて


永正5年(※)の時点で安田但馬守が為景から感状を貰っている事、また、永正10年8/22、安田実秀が藤資に対し起請文を書いていることから、この頃安田氏は為景派であることがわかります。

その後永正10年(※2)9/29、宇佐美房忠が黒川に対し、中条と共に安田を攻めるよう書状を送っています。
これを安田町史は、宇佐美が、安田と中条が和睦したことを知らないために送った書状としています。
同年11/12付近で為景が中条氏家臣の築地氏に安田城陥落についての感状を出している事から、8/22の時点で和睦していたが、11/12までの間に安田が守護側に寝返ったことになり、宇佐美の書状の時点で寝返っている可能性もあると思うのでちょっと留意が必要です。
(9/29以降に裏切った証拠があるかもしれませんが、私はまだ未確認です…)
ただ、宇佐美はそもそも守護方で為景派と争っているはずで、
永正10年10/24時点でも為景が宇佐美を攻めるようなので(※3)、ここだけ為景派の中条と黒川に援軍を依頼して一緒に安田を攻める、というのはどうにも整合性がとれず、偽書である可能性が
否定できません(個人的に)


※ 実際に書状には年についての記載はありませんが、安田系譜にて永正5年と記載されています。
※2 年については記載なし、研究により推測とされたものです。
※3 書状は私がもってないので確認できませんでした…上杉氏年表にはそのように記載されています。


ここまで書いておいて、本題である、永正10年付近で安田は長秀なのか実秀なのかという質問に対する回答として
全く違う事を書いている事に気づきました。(BA☆KA)

安田実秀については、安田氏系譜には見られず、安田氏系譜では輔秀(応永31年(1424年)に元服とあり)の次を長秀とし、永正4年(1507)の定実からの感状(宛名は安田但馬守)を長秀のこととしています。
しかし、前述したように、永正10年の時点で実秀という名前で署名していることから恐らく永正4年時点の但馬守は実秀であると考えられます。
実秀・長秀が但馬守を名乗っている事で各自混乱して、(長秀=実秀)とする、または親子で二分した、としたのかもしれませんが安田氏系譜を正として考えた時に、輔秀が家督を継いで活動できるとしたらせいぜい30年、1454年頃までに家督交代になると考えられます、そうすると、次の代である長秀は1450~1460年ごろから活動を開始した事になります。
ですが、それでは長秀が署名している享禄4年(1531)まで彼が生きていたとは常識的に思えず、輔秀と長秀の間に数代の当主がいるというのが妥当だと思われます。
(安田町史ではその間を3代とし、実秀を長秀の父としています)
よって彼らの活動時期を考えれば、長秀=実秀とはなりません。
親子で二分した説も考えられなくはないですが、それならばこの時点で「長秀」の署名する書状や、そこらへんの事情を記載した書状があると考えられ、これも親子二分説は可能性的に低いと考えられます。


わたしがかんがえるさいきょうの勢力変化

まちがえた

私が妄想した勢力変化

<この頃のメンバー>
中条藤資
黒川弾正左衛門(盛実???)
安田実秀
宇佐美忠秀

永正5年~10年8月  中条・黒川・安田は為景派 宇佐美は守護派
永正10年9月~11月  安田が守護派に寝返る
永正10年9月29日   宇佐美が中条・黒川に安田を攻めるための援軍を要請(宇佐美は守護派なのにどうして???)
永正10年10月24日  為景が宇佐美(小野要害)を攻めるよう高梨さんに書状を送っているらしい
永正10年11月10日頃  中条・築地が安田城を攻め落とす


つらつらと書きましたが、こんな感じかと思われます。
私もさっき1時間程度で整理したのであんまり信憑性はないかと思います。

<<チカメモ>>
「紹襲録」…福島御城代
      平七郎満家男、実大関阿波守盛憲男
      始 大関弥七ト云
      天正十四年~…



(龍師火帝19号?25号?より)
■政景夫妻像がどうして米沢常慶院にあるのか
政景の妹が常慶院(元々信州の寺院)の開基である市川家に嫁ぎ、次男が出家して常慶院九世となり、上杉が米沢に移封する際、一緒についてきたため。
ちなみに、米沢常慶院の中興開山となった市川本悦和尚は上杉景勝の従兄弟。


(龍師火帝31号より)
■直江兼続の墓や位牌が直江氏菩提寺の徳昌寺にない理由
直江氏の菩提寺である徳昌寺が、おせんの死後、林泉寺と総禄争いを起こしてしまい、徳昌寺が破れてしまったため、寺が打ち壊されてしまった。よって墓は林泉寺に移された。
しかし家臣(与板衆)がそれをよしとしないので、平林氏の菩提寺、真福寺に位牌を移したが、今度は真福寺の住職と意見が合わなかったため、兼続の母方の血筋の菩提寺である東源寺に位牌が移ったという。

(龍師火帝35号より)
■能元の嫁について
安田能元の嫁は桐澤具繁の娘。
しかし桐澤具繁の娘は、父の死後、直江兼続の養女となっており、具繁は男児がないまま死去している。
越後古実聞書によれば、「桐澤と安田は近き中」としており、仲はよかったようだ。
能元の嫁は、没年と没時の年齢から、能元とは17,18歳差あったと言われている。

招湯苑が毛利屋敷跡と言われている。

胎内市にある「掃部頭鮎川君之碑」を要約
(おくやまのしょう18号の論文より)

 ・鮎川の祖は摂津守藤長
 ・佐渡相川城を故居とし、後に越後の鮎川に移し、本庄房長を頼る。よって鮎川氏と改名。
 ・大葉沢城を築城、笹平に楼櫓を作成。
 ・長享二年戌申の秋八月五日藤長死去
 ・子、信濃守清長が継ぎ、明応二年癸丑冬十月三日卒
 ・繁長と争い勝てなかった。一族は奥山庄中条の新館に城を持つ伊呂部長門守を頼るが、
  協力を得られなかったため、妻子及び兵、そして笹平に立て籠もった62人を密かに米沢に逃がし、自刃。
  これが天文十一年壬寅八月十五日。諡して「卜心(ぼくしん)」と言う。
  流行病が発生した時、その墓をお参りすると、必ず効験が現れたと伝えられる。
 (複数の論文より、新館の城主は伊呂部ではなく、築地資豊としている。そして城主不在で開門しなかったという。部下は自刃した安長をここに埋葬し、首級のみ奉戴して去り、首級は城下近くの上相川に埋葬された。その首塚は「胴体に会いたい」と変化の様を為す事屢々(しばしば)だったという)

新潟県史資料編4、1108号十二、1109号の本庄繁長起請文案についてであるが、これは本当に本庄繁長のものであるか疑問が残る。
疑問に思う点は以下である。
・本庄氏記録によると、本庄繁長は天文8年の生まれである。天文20年の時点では12歳、または13歳と推測される。
・1108号十二、1109号のどちらも張紙には「小川長資起請文案」とあり、書状自体は年次不肖、十月に書いたものである。発給者の名前は「長」とのみあり。
・1109号にて「右衛門佐が切腹した事」とあり、天文20年10月、11月の色部・鮎川の起請文でも右衛門佐の切腹の事に触れていることから、1108号、1109号の書状は天文20年のものであると推測される。
・1105号の天文10年の小河長資の書状より、右衛門佐とは小河長資を指すことがわかる。

これらを合わせると1108号、1109号は張紙に記載している「小川長資」の起請文ではないことは容易に想像がつく。よって、本書においてもこれを「本庄繁長起請文案」としているのであろう。
しかし、この二つの起請文案を若干12,3歳の繁長が書けるのであろうか。
あくまで「起請文案」として表に出していない事から、本庄孫五郎などの補佐役が書き記し、繁長の代理として発給しようとしていたのではないだろうか。

※【2017.1.3】追加
色部史料集P192より、

天文十五年三月廿四日に、千代猪丸から飯沼某への知行宛行状案が存在するが、これも千代猪丸六歳の頃であり、到底本人が書けるものではない。

新潟県史資料編4、1091号の小河長基書状について、本書では天文10年と推測されているが、1097号の内容より天文4年のものではないか。
1091号に出てくる小川孫三郎・同治部少輔は色部家中出奔事件の主な取次であり、関連書状にもよくその名が出てくる。1091号では、長基が、彼らが「大和守為使」そちらに参ったことを喜ばしく思うと述べた後、「彼咳気労煩少取紛子細候而」と述べており、この頃本庄房長は臥せっていたと考えられる。
そして、1097号の房長から弥三郎への書状(年次不肖3月29日、天文4年と推測されている)にて、房長が色部の出奔事件について述べた後、「今日一日臥せっていた。明日はそちらに参るがその次の日は早く帰りたいので酒はいらない」と伝えている事から、その4日後である4月3日に長基が病床の房長の代理として書状を送っているとしたら、合点がいく。
よって1091号は天文4年だと推測する。

→色部文書Ⅱ(図録)にて同様の記載あり。(5-22)(ただし、起請文ではなくてただの書状。1091号の書状の本文と一致するかは確認していない)

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