<<チカメモ>>
「紹襲録」…福島御城代
平七郎満家男、実大関阿波守盛憲男
始 大関弥七ト云
天正十四年~…
(龍師火帝19号?25号?より)
■政景夫妻像がどうして米沢常慶院にあるのか
政景の妹が常慶院(元々信州の寺院)の開基である市川家に嫁ぎ、次男が出家して常慶院九世となり、上杉が米沢に移封する際、一緒についてきたため。
ちなみに、米沢常慶院の中興開山となった市川本悦和尚は上杉景勝の従兄弟。
(龍師火帝31号より)
■直江兼続の墓や位牌が直江氏菩提寺の徳昌寺にない理由
直江氏の菩提寺である徳昌寺が、おせんの死後、林泉寺と総禄争いを起こしてしまい、徳昌寺が破れてしまったため、寺が打ち壊されてしまった。よって墓は林泉寺に移された。
しかし家臣(与板衆)がそれをよしとしないので、平林氏の菩提寺、真福寺に位牌を移したが、今度は真福寺の住職と意見が合わなかったため、兼続の母方の血筋の菩提寺である東源寺に位牌が移ったという。
(龍師火帝35号より)
■能元の嫁について
安田能元の嫁は桐澤具繁の娘。
しかし桐澤具繁の娘は、父の死後、直江兼続の養女となっており、具繁は男児がないまま死去している。
越後古実聞書によれば、「桐澤と安田は近き中」としており、仲はよかったようだ。
能元の嫁は、没年と没時の年齢から、能元とは17,18歳差あったと言われている。
招湯苑が毛利屋敷跡と言われている。