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自分用歴史メモ。

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「岩井家家譜」(東源寺五百年誌)
・尾崎重能:嘉吉3年(1443)誕生、後、岩井七郎・新五郎備中守と称す。
 文明8年(1476)兄:政重より高井郡之内岩井邑(むら)田神邑を分与される。故に岩井の姓を称し、甥の信濃守重元に属す。永正12年(1515)9月20日死去。73歳。法名:康往院殿釈沢匍下退位。永正16年岩井邑に社殿を建立し和光明神を勧請し和光山第七之別社として岩井霊祠とする」

高井郡之内岩井邑(中野市大字岩井)
岩井城(朝日山城):(同地)

甥の信濃守重元→泉氏。岩井の本家は泉氏。

岩井直信(元能)(重能の息子)の時代に岩井村から水内郡山口村(飯山市大字旭)に移住。山口城を築城。
(泉家の記録では山口の地は泉氏が岩井氏に分与したものとある)

直信の息子が三人。満高・成能・満長(信能父)。
また、高梨系図に「高梨摂津守政頼の室岩井入道女」とあり、岩井家の分家と思われる。

武田の高梨氏攻略の折り、その支配化にあった岩井城も落城したと思われる。
高梨政頼は飯山城に逃れる。飯山城には泉一族の上倉下総守、奈良沢民部が守備。
その際岩井一族も武田派と上杉派で分裂。

山口城には岩井三兄弟がおり、長男に子がなかったため満長が養子となり跡を継ぐ。
満長は政頼に接近し上杉と誼を通じる。

永禄3年正月21日、景虎に太刀一腰送る。
永禄4年、政頼と共に春日山に移動?
永禄4年の川中島合戦に出ていたとされる信能だが、この頃3歳ぐらいなので父の事か?
「上杉家御年譜1」に御手廻の中に岩井民部少輔が
永禄5年、安田景元と共に飯山城を奪還。(上杉家文書)
永禄6年8月3日、大和守満高、所領下条宮内少輔跡地・念仏寺領を宛がわれ、越後に移る。
(柏崎市に下条という地名。柏崎市山澗(だに)に念仏寺があるのでそこ?)
「上杉家御年譜1」「岩井大和守 越府ニ居住スヘキ由言上ニ依テ 管領モ渠(かれ)カ
 志ヲ感シ 下条宮内分ニ念仏寺領ヲ合テ是ヲ賜リ 湯沐(もくとう)ノ地トス 大和守ハ備中守カ兄ナリ」

「上杉御家家中諸士略系譜」岩井満高の項
「永禄6年8月父子弟三人して越後に参り、謙信公に来りて属す」

永禄7年8月、川中島合戦で、武田と対峙した後謙信は飯山城に退去。
永禄7年6月頃、飯山城を大々的に修築した。9月完成、10月、川中島より帰陣した謙信は飯山城に立ち寄り完成を視察している。

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