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自分用歴史メモ。

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父は大関阿波守 初め弥七郎。
水原壱岐守憲永の養子となる(満家の跡を継いだから養父は実家または隆家?)

・戦の時に、勝っている時は静かだが負けている場合は大声で味方を鼓舞。
「嵐の中の塵」など

・川中島・関東出兵の大戦に、初年より一生押付を見せ申さず、と謙信が語ったとか

・景勝の癪にさわり会津出奔、糸糸(これで一文字)立の指物なし、高名を挙げ、のちに越後へ帰参、景勝へ奉公。

・慶長5年9月、兼続大将4万の兵で最上へ出陣、
  先陣 春日宗貞
  二陣 五百川修理亮
  三陣 上泉主水
 軍奉行 水原親憲

 11月26日、志貴野合戦に戦功あり
 秀忠の感状をその場で開く。
 会津移封後、1万4千石で猪苗代城主に。


・大身、小身親疎なく、相応に見回り、且つ武功もありて、主君の用に立つべき人へは小身の侍へは恩信を通し、慇懃に交わるので、戦場で親憲が下知すれば士卒はよく聞いて手の廻る事、餘の大将に過ぎたり。
さる程に、親憲の武者の使いは、数千の兵も一人を使う如しと沙汰致し候。

・景勝が米沢に移り、摂州に着陣した時、80で死去

・子の弥七郎は景勝へ(家督について)不足申し、浪人し、米沢を立ち退くが定勝の時代に復帰

・舞・連歌・茶にも優れ、人の話によく上る男。

・顔に白粉を塗って赤い頭巾を被り、箒に紙吹雪を散らせながら踊り、景勝の頬を緩ませる。

・馬上にて道を行く時大笑いして通行した。

・謙信時代は生きるか死ぬかでも感状が貰えなかったが、今は物見遊山で戦出て感状が貰える!嬉しい!(嫌味)
・慶長19年の伏見行く時、自分は田舎者で一張羅しかないからと、猿楽の装束能法被を具足の上に着ていった。それを見た内府に「上杉古き家なれば親憲の武具立見事なり。紺地の錦の鎧直垂を着ている。皆々後学に見置けと、上意なりし故、天下の沙汰となる。誠におかしき儀に奉存候。

※謙信記もほぼ同じ内容だが、83歳病没とある。

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