忍者ブログ

自分用歴史メモ。

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

佐渡攻めあたり。めんどくさいので途中まで。



(誰が出たのかはわからないけど(史料持ってない))天文16年5/6、出雲崎より出発し、南佐渡を左に当って東方へ押し回し、北佐渡の内、片山の港へ着いた。

藤田・安田・須田の三将、合わせて六千騎は、翌七日に出雲崎を出発し南佐渡を右に当り西方へ押し回し、澤根湊へ着いた。
ここは北佐渡自然詐偽にて、大石・長尾等へ一戦を仕掛る事があれば、手脆く負けることはないだろうといえども、なお用心のために、三将を遣わしたら、
佐渡の者共は思い寄らず、西方より大勢で押上り切懸ったら、全く勝利を得るべしとのことなので、このようであった。

とりわけ藤田能登守の相備は、垣崎(柿崎のこと?)弥次郎・新津丹波・斎藤三郎右衛門・松本左馬助・色部修理・黒川左馬助・甘糟備後、
検使には村松應閑齋を差し添えて、先手を仕り、万事の指引は能登守次第と仰せつけられていた。


(中略)

6/6、能登守は備大将といえども、一番合戦、二、三は安田・須田三備と備定める。
もっともそのうち、手分・手組・手配は、時によって地によって、様子は変わっているけれど作法に違いはない。
陣城の留守は、新津丹波に人数を差し添えて残し、吉井の敵城へ取り寄せる。
須田備は、その辺の植田を混散らし、畑の物を薙いで放火すること、これまた一の武術である。
藤田備は、大手門に向かい、安田備は搦手門へ向かった。
長尾加賀守は、大石播磨守を残して、片上より出向かい、口に備を置く。

そうしていると、敵は搦手門より打って出て、安田衆に襲い掛かる。安田はこれを喜んで取り掛かった。


(中略)


・その後色々あって、戦後、何故か能元が藤田組に来て、藤田組の夏目舎人・斎藤源太左衛門に感状を出した。これは景勝公が言上仕り、
そのうちの験であったので、このようであった。

PR

◎ Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
◎ プロフィール
HN:
みみず
性別:
非公開
◎ 最新記事
(05/15)
(05/14)
(05/14)
(02/18)
(02/07)
◎ リンク
◎ P R
Script: Ninja Blog 
Design by: タイムカプセル
忍者ブログ 
[PR]