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自分用歴史メモ。

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ツイッターの知り合いに宛てたもの。
天正10年ごろの大見安田の当主は誰なのかということについて


永正5年(※)の時点で安田但馬守が為景から感状を貰っている事、また、永正10年8/22、安田実秀が藤資に対し起請文を書いていることから、この頃安田氏は為景派であることがわかります。

その後永正10年(※2)9/29、宇佐美房忠が黒川に対し、中条と共に安田を攻めるよう書状を送っています。
これを安田町史は、宇佐美が、安田と中条が和睦したことを知らないために送った書状としています。
同年11/12付近で為景が中条氏家臣の築地氏に安田城陥落についての感状を出している事から、8/22の時点で和睦していたが、11/12までの間に安田が守護側に寝返ったことになり、宇佐美の書状の時点で寝返っている可能性もあると思うのでちょっと留意が必要です。
(9/29以降に裏切った証拠があるかもしれませんが、私はまだ未確認です…)
ただ、宇佐美はそもそも守護方で為景派と争っているはずで、
永正10年10/24時点でも為景が宇佐美を攻めるようなので(※3)、ここだけ為景派の中条と黒川に援軍を依頼して一緒に安田を攻める、というのはどうにも整合性がとれず、偽書である可能性が
否定できません(個人的に)


※ 実際に書状には年についての記載はありませんが、安田系譜にて永正5年と記載されています。
※2 年については記載なし、研究により推測とされたものです。
※3 書状は私がもってないので確認できませんでした…上杉氏年表にはそのように記載されています。


ここまで書いておいて、本題である、永正10年付近で安田は長秀なのか実秀なのかという質問に対する回答として
全く違う事を書いている事に気づきました。(BA☆KA)

安田実秀については、安田氏系譜には見られず、安田氏系譜では輔秀(応永31年(1424年)に元服とあり)の次を長秀とし、永正4年(1507)の定実からの感状(宛名は安田但馬守)を長秀のこととしています。
しかし、前述したように、永正10年の時点で実秀という名前で署名していることから恐らく永正4年時点の但馬守は実秀であると考えられます。
実秀・長秀が但馬守を名乗っている事で各自混乱して、(長秀=実秀)とする、または親子で二分した、としたのかもしれませんが安田氏系譜を正として考えた時に、輔秀が家督を継いで活動できるとしたらせいぜい30年、1454年頃までに家督交代になると考えられます、そうすると、次の代である長秀は1450~1460年ごろから活動を開始した事になります。
ですが、それでは長秀が署名している享禄4年(1531)まで彼が生きていたとは常識的に思えず、輔秀と長秀の間に数代の当主がいるというのが妥当だと思われます。
(安田町史ではその間を3代とし、実秀を長秀の父としています)
よって彼らの活動時期を考えれば、長秀=実秀とはなりません。
親子で二分した説も考えられなくはないですが、それならばこの時点で「長秀」の署名する書状や、そこらへんの事情を記載した書状があると考えられ、これも親子二分説は可能性的に低いと考えられます。


わたしがかんがえるさいきょうの勢力変化

まちがえた

私が妄想した勢力変化

<この頃のメンバー>
中条藤資
黒川弾正左衛門(盛実???)
安田実秀
宇佐美忠秀

永正5年~10年8月  中条・黒川・安田は為景派 宇佐美は守護派
永正10年9月~11月  安田が守護派に寝返る
永正10年9月29日   宇佐美が中条・黒川に安田を攻めるための援軍を要請(宇佐美は守護派なのにどうして???)
永正10年10月24日  為景が宇佐美(小野要害)を攻めるよう高梨さんに書状を送っているらしい
永正10年11月10日頃  中条・築地が安田城を攻め落とす


つらつらと書きましたが、こんな感じかと思われます。
私もさっき1時間程度で整理したのであんまり信憑性はないかと思います。

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