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自分用歴史メモ。

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<耕雲寺文書>

右衛門次郎房長□五代目本庄大和守房長儀ハ 天文八年十一月廿八日頓死 法名綱山統公庵主と申候ヘハ 私先祖之分ハ 其頃公ノ字を法名之内へ相用候歟(読み方:ヨ か や)ニ相見ヘ申候


<新潟県史 色部文書>

享禄4(1531)8月20日 清長→憲長へ起請文 房長・憲長・長基・清長の間で隠し事はしない。

同じく享禄4年1月、例の壁書

天文10年 鮎川氏家中起請文案 (本当に鮎川氏のものか断定は不可能) 
矢羽幾の「公的に嫌な対応」のせいで数年間隔たりがあり、3年間争ってきましたが、色部殿の取り計らいで和睦することにしました。
でも下渡島は鮎川の本領なので返して下さい。
清長に対し子息市黒丸についての記載も??どうやら市黒丸から孫次郎に改名します、という内容っぽい。
8/6の起請文案とほぼ同じ内容。

天文10年 同じく色部が小河に対し起請文。本庄・鮎川・貴所・某とある。

天文10年7月 鮎川から色部へ起請文。

天文10年?7/27 清長・鮎川家中から勝長・色部家中へ起請文。(それぞれ) 下渡島について。

天文10年(1541年)7月26日 清長→勝長への書状
下渡島に出奔した清長の家臣を本庄側で切腹させてもらってまずは満足。家中の糾明を急ぐ、という手紙。

天文10年8月6日 起請文案、おそらく鮎川→孫五郎へ
2月の起請文案とほぼ同じ。



天文20年11月 改名した清長(?)(入道後)、岳椿斎 元張 での署名で勝長へ書状。小河の切腹について。


(越佐史料3)
<黒川文書>
天文9年12月7日 晴景から揚北諸将へ

実元の入越について。歓迎しているように見えるが…?

宛名は
色部 竹俣 荒川 黒川
加地 安田 中条 鮎川

<本文>
定実、実元を迎養せんとして、其資を諸将に課すること、七年十月二十四日の條に、植宗未だ之を決定せざること今年十一月二十八日の條に見ゆ

二十八日、定実、伊達実元を迎養せんとするや、本庄房長等之を懌(よろこ)ばず、仍りて中条藤資、伊達氏の援を得て房長を越後本庄城に攻め、房長羽前大宝寺に遁(のが)る、房長の弟小河長資、其虚に乗じて本庄城を襲取す、房長乃ち国に帰らんとして、是日、途に没す。

<色部文書>
中条弾正忠、伊達之儀馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷伊達之人数、本庄・鮎川要害□之條、彼面々大宝寺へ退去、己他之国に罷成儀歎ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之儀、巣城計に城置付落居之砌(みぎり)、従伊達晴宗無事爲取扱及使者、…






関係ないけどちょっと退避
<中条町史>
永正9年(1512)年為景→築地への書状。鮎川要害に対して陣を張っている様子がうかがえる。(562ページ)

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