忍者ブログ

自分用歴史メモ。

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

越後史集 天より


・安田上総介順易は、謙信以来数十度の手柄、軍功の侍大将、人数を廻し、度々の誉あり。されども毎度手疵を負ひ候。鐵上野介も、度々の武あれども、武勇にかさなく、将師の量なし。杉原常陸介親憲・本庄越前守繁長は、武勇の大がさありて、将師の器量、世に類多からざる程の大将なり。何れも謙信代より、先手を致したる者なり。直江山城守兼続は、文者にて、詩聯句の達者、連歌・歌道勝れ、口上弁舌能く、大音にて、公儀・座配無雙なり。大男にて勿體よく、天下の御家老にしても、然るべき見事なる侍なりべしものにて、諸大臣と交り、石田三成・浅野弾正などと、牛角の座配。当家にて、卅二萬石なり。大膽者にて、いひたき事をいひたる由、千坂對馬守も、弁舌明に才智ありて、男振人に勝れ、何方へ使者に遣しても、あつぱれなる武士なり。岩井備中守は、元来信州飯山城主にて、謙信小姓立、見事なる男にて、十八度の武辺、才智弁舌ありて名高く。其上千利休に茶道を学び、数寄上手なり。安田上総介は小男にて、手疵故少し足を踸く。眼振光ありて、面にも手足にも、鎗・太刀・鉄砲の痕多し。何者が見ても、大剛の侍大将なりと、いはぬ人はなし。中々すすどく、気高き侍にて候ひつるなり。直江山城守、連歌の発句に、紹巴の褒美あまたあり。

・景勝は小男なれども、何様にも貌魂、何百人の中にても、無類の大将なり。一代詞寡く、笑ひたる事なし。弾正定勝は、慈悲なる人にて、士卒を憐む故、家中上下思付く事浅からず。謙信・景勝両代に、家を立除き、又は死失せ、追放に遭うたる譜代の侍共の子孫を、大方呼返す故、諸人悦ぶなり。

・景勝は、素性(うまれつき)詞寡く、一代笑顔を見たる者なし。常に刀・脇差に手を懸けて居らる。或時に、常々手馴れて飼ひ給ひける猿、景勝の脱ぎて措き給ひける頭巾を取り、樹の上へ昇り坐して、彼頭巾を蒙り、手を扠へて、座席の景勝へ向ひて點頭きたるを見て、莞爾(にっこ)と咲(わら)ひ給ひたるを、近習の者共、初めて見たるとなり。
城下八幡小路を、轎(のりもの)にて通り給ひけるに、陪臣の歩若黨、だて染の帷子にて参り懸り、畏り居たるを、景勝見給ひ、好き若者なり、立つて歩むべし。男の振を見んと宣ひければ、彼者立上り、二反歩みて、又畏りたるに、景勝、俄に気色替り、大に怒りたる形勢(ありさま)にて、あの奴牽いて参れとて、歩侍に両手を牽張(ひきは)らせ、前へ引寄せ、己め、景勝を嘲哢せん事奇怪なり。屋形腹筋、いやいやといふ大紋を附けたりとて、抜打に誅し給ひける。帷衣の肩に、一手鏑矢を付け、腹に大筋を付け、裾に射捨てたる矢を紋に附けたりしを、見咎め給ひけるとなり。

・永禄七年七月五日に、宇佐美駿河守定満と、長尾越前守政景と、信州野尻城下の池にて生害の後、時々光物出で来、其上に、魚なくなりたり。慥なる事なれば、書き記すものなり。
政景は、龍嚴寺に葬る。憲徳院匠山道宗と號す。定満は雲洞院に葬る。芳名は養勇庵良勝儁公と號す。雲洞院は、代々宇佐美菩提所なり。駿河守一代、人数扱ひ、下知に持ちたる軍配団扇、幷に宇佐美の系図を、雲洞院什物に納むる。


・(中略)畠山入庵内室は、謙信姪なり。十一二歳の頃、殊の外愛せられ、関東陣の時は、兒の出立にして、小具足の上に、長絹の直垂を着、太刀・刀ささせ、馬に乗りて、老女三人介錯に付きて、輝虎共に連れられたる由。此姪は、即ち畠山下総守義貞の御母儀なり。父は長尾政景、母は謙信妹。後には仙桃院と號す。
永禄七年の秋、信州にて、政景を、宇佐美駿河守定行が殺したる時も、大方謙信の内意とある事、粗ぼ知れたる故、仙桃院は、謙信に向ひて、越前守果てられ候は、偏に戦場にて御用に立ち候同意に候間、義景・景勝は申すに及ばず、娘二人も御見捨あるまじと、申されたる由。斯様の事にて、宇佐美駿河守遺跡は、強く頽して、子の民部をも、深く二代まで勘当さられたるなり。今に至るまで、宇佐美駿河守事は、当家にては忌んで沙汰せず。先祖の讐たる故なり。


-----------------------------------------


・重家の乱で、重家は妹婿である長実さんを味方にいれようとしたけどいい返事がもらえず、しかも先手で攻めてきたので、重家は遺恨を持って最期の時には色部の陣中に突っ込んで討死した。
長実さんは重家の首を取って景勝様へ進上した。

・宇佐美定行(定満)の子、勝行が父が生害したため本領を没収され、小千谷五泉辺りで浪人していたとき、本領を返してもらうと、新発田の乱の際に新発田方の屈強な敵を二人倒して首を取った。そして平林内蔵助に頼み込み、景勝様に謁見させてもらえることになった。しかし、宇佐美から事情を聴いた景勝はみるみる怒りの表情に変わり、眼の光は光炬の如く平林を睨み付け、宇佐美を追い返した。
平林も頭を垂れるしかなく、宇佐美は二つの首を捨て置いて泣く泣く立ち去った。景勝は「実父を殺した仇である宇佐美駿河の子をどうして許せるか」といったという。
この話は平林が上杉綱勝の傅役についたときに語ったものである。

・上杉が米沢移封になったとき、慶次にいろんなところからスカウトが来た。どれも上杉での知行よりは高かったが慶次は「自分の主人は景勝以外いない」と言って断った。一生妻子を持たず、寺住居のようなところに住み、在郷へ引き込んで、定勝の時代に病気をした。


・兼続と政宗との扇子の上でお金をポンポン回す話

・閻魔大王の逸話

PR

◎ Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
◎ プロフィール
HN:
みみず
性別:
非公開
◎ 最新記事
(05/15)
(05/14)
(05/14)
(02/18)
(02/07)
◎ リンク
◎ P R
Script: Ninja Blog 
Design by: タイムカプセル
忍者ブログ 
[PR]