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自分用歴史メモ。

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・鮎川摂津守、大功の人なり。讒言に逢ひて謙信に殺さる。

えっ??

・竹股駿河守朝綱、永禄七年、川中島合戦の時、長刀を以て、大勢を切落し、手柄ある。
…この家に名剣あり。越後の老津の百姓市へ出で、大豆を買ひ、袋に入れ帰る。袋の破却より大豆落つる。
腰の刀に當(あた)る。鞘破れ出てたるに當り、二つになりたるとなり。竹股是を聞き、買い取る。
作は肥前兼光、二尺九寸。謙信度々御所望により、進上仕る。謙信上方へ拵(こしらえ)に遣わさる。
二年計りありて来る。竹俣朝綱が息是を見て、是は似せ物と申すにより、石田治部少輔へ内意あり。吟味あるところに顕れ、盗人同類十二人召出し、秀吉公より磔に懸くる。木作は景勝へ帰る。その時、竹股はばき元一寸五分、上□の表へ、髪筋の通る程の穴あり。是へ毛一筋通し、御目に懸くる。景勝も諸臣も、奇異の思をなし、其後太閤秀吉公より、御懇望に付、差し上げらる。秀頼公へ御譲り給ふ。大坂落城の時、秀忠公より、和泉・河内・摂津に、右太刀持出づる者は、黄金三百枚下さるべく、士たる者には、高地を下さるべしと仰なれども出でず。

長い

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・秀綱は大山氏小姓になったらしい。要出典

・秀綱兄 1569年22歳死去。生まれは1547?秀綱と15歳くらい離れてる。…母が違うのかも?

・鮭延城記だと、秀綱の兄は「痘瘠」で亡くなったようだ。痘瘡?

・「信太殿いはいは長林寺に立置候 栗太殿先祖の事は不存候…いはい則清源寺に相立」 柿崎能登守書状
 これ家老の二人の事?

・鮭延城在城中、秀綱は毎年彼岸会(ひがんえ)を開催し、百万遍の大念仏供養をしていたそうだ(鮭延城記)

・正源寺所蔵の「鮭延越前守系図」では秀綱の生年なし。兄の没時は鮭延城記と一致。
・両法院殿雷翁花公居士 慶長廿年六月越前守子息左ェ門尉 1605年
・任称院殿鏡庵明公大姉 越前守秀綱老母
・ 影響院古柏宗庭大姉(室)
・ 清庵院梅宿妙玉大姉(妻)

父は大関阿波守 初め弥七郎。
水原壱岐守憲永の養子となる(満家の跡を継いだから養父は実家または隆家?)

・戦の時に、勝っている時は静かだが負けている場合は大声で味方を鼓舞。
「嵐の中の塵」など

・川中島・関東出兵の大戦に、初年より一生押付を見せ申さず、と謙信が語ったとか

・景勝の癪にさわり会津出奔、糸糸(これで一文字)立の指物なし、高名を挙げ、のちに越後へ帰参、景勝へ奉公。

・慶長5年9月、兼続大将4万の兵で最上へ出陣、
  先陣 春日宗貞
  二陣 五百川修理亮
  三陣 上泉主水
 軍奉行 水原親憲

 11月26日、志貴野合戦に戦功あり
 秀忠の感状をその場で開く。
 会津移封後、1万4千石で猪苗代城主に。


・大身、小身親疎なく、相応に見回り、且つ武功もありて、主君の用に立つべき人へは小身の侍へは恩信を通し、慇懃に交わるので、戦場で親憲が下知すれば士卒はよく聞いて手の廻る事、餘の大将に過ぎたり。
さる程に、親憲の武者の使いは、数千の兵も一人を使う如しと沙汰致し候。

・景勝が米沢に移り、摂州に着陣した時、80で死去

・子の弥七郎は景勝へ(家督について)不足申し、浪人し、米沢を立ち退くが定勝の時代に復帰

・舞・連歌・茶にも優れ、人の話によく上る男。

・顔に白粉を塗って赤い頭巾を被り、箒に紙吹雪を散らせながら踊り、景勝の頬を緩ませる。

・馬上にて道を行く時大笑いして通行した。

・謙信時代は生きるか死ぬかでも感状が貰えなかったが、今は物見遊山で戦出て感状が貰える!嬉しい!(嫌味)
・慶長19年の伏見行く時、自分は田舎者で一張羅しかないからと、猿楽の装束能法被を具足の上に着ていった。それを見た内府に「上杉古き家なれば親憲の武具立見事なり。紺地の錦の鎧直垂を着ている。皆々後学に見置けと、上意なりし故、天下の沙汰となる。誠におかしき儀に奉存候。

※謙信記もほぼ同じ内容だが、83歳病没とある。

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