胎内市にある「掃部頭鮎川君之碑」を要約
(おくやまのしょう18号の論文より)
・鮎川の祖は摂津守藤長
・佐渡相川城を故居とし、後に越後の鮎川に移し、本庄房長を頼る。よって鮎川氏と改名。
・大葉沢城を築城、笹平に楼櫓を作成。
・長享二年戌申の秋八月五日藤長死去
・子、信濃守清長が継ぎ、明応二年癸丑冬十月三日卒
・繁長と争い勝てなかった。一族は奥山庄中条の新館に城を持つ伊呂部長門守を頼るが、
協力を得られなかったため、妻子及び兵、そして笹平に立て籠もった62人を密かに米沢に逃がし、自刃。
これが天文十一年壬寅八月十五日。諡して「卜心(ぼくしん)」と言う。
流行病が発生した時、その墓をお参りすると、必ず効験が現れたと伝えられる。
(複数の論文より、新館の城主は伊呂部ではなく、築地資豊としている。そして城主不在で開門しなかったという。部下は自刃した安長をここに埋葬し、首級のみ奉戴して去り、首級は城下近くの上相川に埋葬された。その首塚は「胴体に会いたい」と変化の様を為す事屢々(しばしば)だったという)
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